学問の神様として、受験を控えている学生などに人気で参拝者が絶えない京都の北野天満宮。
そんな北野天満宮境内にはたくさんの牛が境内に鎮座しています。
学者・政治家であった菅原道真を祀る「天神社」と呼ばれる神社は全国で約1万2000社。
その総本社が京都の北野天満宮です。
天神のシンボルとして北野天満宮をはじめ、全国の菅原道真を祀る神社には数々の牛の像が見られます。
なぜ天神(北野天満宮)のシンボルが牛なのか?
なぜ天神(北野天満宮)のシンボルが牛なのかという理由には以下の4つの説があります。
1.祭神の菅原道真の誕生日が由来している説
承和12年(845年)6月25日の丑年に菅原道真が産まれたので、丑年の牛を天神に関連付けた。
2.「牛を殺して神に供えて雨乞いをする信仰」が由来している説
北野天満宮の地域はかつて農耕の地だった。農耕をする人にとって、豊作のために大切なのは雨。そのため、雨が降ってほしいと雷人(天神)に願っていた。
雨が降ってほしいと願う行事に、牛を殺して神に供えて雨乞いをするという信仰の形態があったため牛と天神が関連づけられた。
3.菅原道真の遺骨を運ぶ牛車が由来している説
菅原道真の遺骨を牛車で運んでいる絵が北野天神縁起(北野天満宮の由来などついて描かれている絵巻)に描かれている。
また、遺骨を運んでいる途中に牛車が突然動かなくなった場所に遺骨を埋葬しようとして墓穴を掘っている場面も北野天神縁起に描かれている。
そのような菅原道真と牛車の関わりから、牛と天神が関連づけられた。
4.菅原道真につけられた神号が由来している説
菅原道真にはいくつかの神号(神に対し手の尊敬の気持ちを込めた呼び名)が付けられている。
その中で牛と関連性のある神号が、大威徳明王と習合した「日本太政威徳天」と大自在天と習合した「天満大自在天」。
大威徳明王も大自在天もどちらも牛に乗っている。
そのため、牛と天神が関連づけられた。
以上が天神のシンボルが牛とされている4つの説です。
大威徳明王と大自在天のインドとの関連性
牛が関連づいている大威徳明王と大自在天。
大威徳明王の別名“ヴァジュラバイラヴァ”は「恐ろしい者」という意味でシヴァ神の最も怖くて険悪な面を指しており、大自在天の起源はシヴァ神なのでどちらもシヴァ神が由来しています。
シヴァ神とはインドで誕生したヒンドゥー教の神様で、数ある神様の中でも人気のある神様です。
青白い裸体姿で、虎の皮と蛇のアクセサリーを付けているのが特徴です。
ガンジス川で有名なバラナシはシヴァ神の聖地で、シヴァ神が大麻を好んでいるということから現地にいるサドゥ(修行僧)が好んで大麻を吸っている光景をよく目にします。
シヴァ神が起源の大威徳明王と大自在天はどちらも牛に乗っている姿でしたが、シヴァ神ももちろん牛に乗っています。
このシヴァ神が乗っている牛はただの牛ではなく、立派な神様のうちの1つです。名前はナンディン。
ナンディンはヒンドゥー教の寺院やヒンドゥー教の聖地で像が数多く祀られています。
インド・ヒンドゥー教のナンディン像と北野天満宮の牛の像は似ている!?
“シヴァ神が乗っているナンディン”と“シヴァ神と関連性のある北野天満宮の牛”
写真で見てもわかるように、どちらも蹲っている姿がどことなくそっくりではないでしょうか?!?!
また、神聖なものとしてヒンドゥー教徒の人たちがナンディンの像を撫でる姿を寺院でよく見かけます。
そんな撫でられている姿も、北野天満宮の牛とそっくりです。
神聖なものから恩恵を受けようとする考えは、ヒンドゥー教と神道で通づるものがあるのではないでしょうか。
ヒンドゥー教と神道は似ている
ヒンドゥー教と神道は似ていないように見えますが、結構似ていて、共通点がいくつかあります。
1.民族宗教
神道は日本に土着の宗教で他の国には広まっていません。ヒンドゥー教は少数ながら他の国にも広まっていますが、ヒンドゥー教徒の大多数がヒンドゥー教生まれの地インドに住んでいます。
よって神道もヒンドゥー教も国や民族を超えて広まっていないので生まれた地に深く根付いている民族宗教といえます。
2.開祖がいない
神道もヒンドゥー教も、イスラム教のムハンマドやキリスト教のイエスなどのように世界中で信仰されている宗教とは違い開祖がいません。
神道は自然信仰によって自然発生的にでき、ヒンドゥー教は多数の哲学学派や宗教的信仰が入り混じって出来た宗教です。
3.多神教
神道もヒンドゥー教も多くの神々を持っています。
神道の考えでは、日本には八百万の神様がいるとされています。つまり、自然発生的に生まれたものを神とするので神はひとつでなくたくさんいるということです。
例えば、神社や山にある岩や木が変わったものであったりすると神として扱われ、それらに祈りを捧げたりされています。
ヒンドゥー教の考えでは、神は数え切れないほどたくさんいるという人もいれば、ヒンドゥー教の数ある神様の中心にただ1つの神(ブラフマン)がいるという人もいます。つまり信者の考えはそれぞれです。
代表的な神にシヴァ、ヴィシュヌ、サラスヴァティー、ガネーシャ、ハヌマーンなどがいますが、まるで人間のように各々容姿も違い、性格も違います。
ヒンドゥー教の寺院にはこれらのような色々な神様の像が祀られていて、すべての像にお祈りして周る人もいれば、一つの像のみにお祈りする人もいます。
4.特定の聖典がない
イスラム教のコーランやキリスト教の聖書などのように神道とヒンドゥー教には特定の聖典がありません。
神道には「祝詞」という古来の祈りの言葉はあります。祝詞は神社にて祭事のときに、神様に対して唱えられる言葉です。
ヒンドゥー教は「ヴェーダ」や「ウパニシャッド」などの教典、「バガヴァット・ギータ」というクリシュナ神についての物語の聖典、「マハーバーラタ」や「ラーマーヤナ」というインドの叙事詩などがヒンドゥー教の思考体系に影響を与えてきました。
つまり、ヒンドゥー教は特定の一つの聖典に載せられている教えに従っている宗教ではありません。
5.罪と穢れの考え方
神道もヒンドゥー教も罪や穢れを水によってとりのぞく慣習がとても似ています。
例えば神道では古来、滝行を行ったり、海や川や池に体を浸して罪や穢れをとりのぞいていました。
それを簡略化したものが、神社でお祈りをする前に口や手をゆすぐ手水舎です。
ヒンドゥー教でも古来から現代に到るまで、聖なるガンジス川や海や池に体を浸して罪や穢れをとりのぞいています。
ガンジス川が流れている聖地のバラナシやハリドワールでは、川の水を持ち帰るためにボトルが売られています。持ち帰ったガンジス川の聖なる水は、部屋に撒いたり、お祈りの時に使うそう。
このお水を持って帰るという慣習も、神社の御神水を持って帰り、清めることに御神水をつかう日本人の姿にどことなく似ています。
日本とインドは文化も人もかなり相違しているように感じますが、探してみると結構共通点があるかもしれませんね。